このごろラーメンに なると が入っていない
昔、ラーメンには必ず「なると」というものが乗っていた。ラーメンの具なんてもともとたくさんの種類はなくて、チャーシューとメンマとなるとというのが定番になっていた。最近は、これに味付け玉子だとか、海苔だとか豚の角煮まで乗ることもある。味だって東京では、しょうゆ味に決まっていたのだ。
ラーメンは非常に進化してしまって、それぞれに様々なオリジナルティーが主張されるようになった。スープの味もラーメン店の顔となり、味噌だとか、塩だとかとんこつだとか非常にバラエティーがある。店の特徴をこれでもかと主張して客をどれだけ並ばせるかが、繁盛店の目安となったりもしている。それをとやかく言うつもりはまったくないが、私は45年前に親父に連れて行ってもらって、下町の場末で見る三本立ての安い映画の帰りに立ち寄るラーメン屋のラーメンが一番好きだ。(きっともう同じ店はないのだろうが。)私には今のいろんな味のするスープのおいしすぎるラーメンはまったく別の食べ物にしか思えない。当時はうんと贅沢な気分になりたいときには、「五目そば」という手があった。なんたってラーメン風のものの上に伊達巻玉子や、肉や野菜まで乗っている超豪華な感じの特別ラーメンだったのだから。しかし、子供の頃は単純なラーメンの方がずっと好きだったような気もする。したがって私の心の中では、ラーメンはしょうゆ味で、チャーシューとメンマとなるとが乗っているものに限るということになる。
最近この三種の神器とも言うべきラーメンの具の中では、なるとを見ることが非常に少なくなってきた。たぶん魚の練り物であろうなるととは、そんなに貴重品でもなかろうに、どうして使われなくなってしまったのだろう。色合だって全体的にくすんだ黄色か茶色を主体としたラーメンの中で、ひときわ美しい白とピンクであってアクセントとしては、非常に有効な存在なのである。大好物のラーメンを食するたびに漠然とした寂しさを禁じ得ないのであった。
ところが、つい最近スーパーの一角でなるとを発見した。大体私がスーパーなどに立ち寄るのは年に何回もないのであるが、かまぼこやつみれと一緒に練製品のコーナーに鎮座していたなるとを発見した時には、3分間は動けなくなってしまったほどだ。もちろんその日のメニューはラーメンで決定となった。今ではラーメンは自宅で食べようと思えば、いろんな試みができる。一番手軽なのは袋に入ったインスタントラーメンだし、ゆで麺だって売っている。小麦粉を自分で打ってもいいが、時間はかかる。ただし、カップ麺というものは私は正式にはラーメンとして分類していない。器や具まですべてそろってしまっていて、あまりにもはかなさを感じるからである。
さて、当日私はゆで麺を選択した。本来であれば、スープも本格的に用意したいところであったが、これは既製品でがまんした。なにしろ、なるとという待ちに待った食材を手に入れたのだから、その他は多少手を省くしかない。さて麺とスープが揃えば、チャーシューとメンマも購入しなければならない。これらはどこのスーパーでも比較的簡単に手に入れることができる。ついに久しぶりに三種の具がすべて揃った昔なつかしいラーメンを製作することができる。私の心がどんなに高鳴ったかは、皆さんにも想像していただきたい。なのに私はここで、ひとつだけ大きな失敗をした。なるとについて子供の頃からの夢を実現させてしまったのだ。まず、昔とまったく同様のラーメンをつくることを心掛けるべきであった。私は子供のころ薄く切った、たった一枚のなるとをラーメンという食事のどこで口にすべきかを真剣に考えていた。一番最初に食べてしまうと、彩りとしてのなるとの存在感は一瞬にして消えてしまう。かといってラーメンをすべてすすり終わってスープまで飲み干した後になるとを口にしたときには、それほど食べ応えのあるものではないなるとは、なんだか悲しい存在でもあるのだ。ラーメンの中ではエンディングを華々しく飾れる主役ではないのだ。一度でいいから、何枚ものなるとを、または分厚く切ったなるとを食べて見たいものだと、当時本気で思っていた。しかし、ついにこの日私はしばらくぶりにめぐり会えたなるとくんを主役に抜擢した。「なるとよ、長い間待たせたね。今こそ君の出番だ。」まず、一枚ぽっちだからいけないのだと考え、なるとを10枚ほど輪切りした。それでも、一本買ってきたなるとはまだ半分残っているので、今度はこれをまったく切らずにドボンとラーメンにぶち込んだ。これで、たった一枚で薄い存在のはずのなるとは、薄いのが10枚もある上に分厚い食べ応えのあるものも含んだ具へと大変身した。かくして、なるとラーメンの完成である。
しかし、これを食した私が涙したことは皆さんにもご理解していただけるであろう。もはやこれはラーメンではなかった。分厚いなるとについては、できそこないの味のしみていないおでんを思い浮かべていただきたい。ラーメンそのものも台無しであった。食べても食べてもピラピラとどんぶりに浮いているなるとにもうんざりである。ここで初めて私は、なるとにもチャーシューにもメンマにもそれぞれ役割があり、適当な存在感の中でハーモニーを生み出しているのだということに気付いたのだ。そういえば、チャーシューメンという、チャーシューばかりがやたら多い、ややバランスを欠いた食べ物を嫌っていた自分が昔あったことも思い出していた。世の中で必要なことはバランスなんだ。
それでも、なにごとにもめげない私は、「次はワンタンメンだ」と強く心に誓ったのだった。